権力が悪に変わる時...

ニコラス・キャンピオンによるリズ・グリーンのインタビュー

2001 年8月14日に行われたリズ・グリーンとニック・キャンピオンという二人のトップアストロロジャーによるこのインタビューは、アメリカの占星術誌「マウンテン・アストロロジャー」に掲載されました。インタビューの中心となるテーマは2001年にピークを迎えた土星と冥王星のサイクルについてです。
2010年にふたつの惑星のサイクルは、新しいターニングポイントを迎えました。2011年の2月から3月にかけ、牡羊座に向かう木星が冥王星と土星のアスペクトに接近するため、このサイクルに対してのわたしたちの理解がさらに深まることでしょう。リズ・グリーンは土星と冥王星の組み合わせに対し、歴史的認識からの深い知見を持っています。土星と冥王星の組み合わせは如何なる形であれ、世界的な問題として浮上してくるものです。
様々な話題がインタビュー内では取り上げられていますが、歴史的認識もその中に反映されています。占星術は科学的リサーチが必要か、占星術は当たるのか、意識は占星術を超えるのか、占星術の神学的な説明はあるのか、宗教的または精神的な遺産が占星術に受け継がれているのか、私たちに根付く信条体系なのか、占星術特有の概念は何なのか、宗教的宇宙論は心理学なのか、占星術と芸術をつなぐものとは何なのか? これらは現在でもまだまだ注目を集めている(もしかしたら、これまでよりもっと注目されている)疑問点です。
ここに掲載されているものは、インタビューの一部を抜粋したものです。上の問いに対して答えを見つけるのはまだまだ遠い道のりとなるでしょうが、インタビューを読むことによりある種のひらめきが宿ることだろうと思います。そして、ひらめきを超えていくことにより、他の種類の気づきが与えられることでしょう。リズ・グリーンはどちらか一方に非があると言うことなく、そこにある類似点や違いも認めています。彼女はそこの間の中間地点に身を置き、不確かなものとともに生きることができる人なのです。


Saturn and Plutoニック・キャンピオン(以下ニック):土星と冥王星のサイクルは1940年代に起きたインドとイスラエルの独立と関連しています。ヒンズーとユダヤというふたつの古代から続く文化が国家形態をここで再建したのですね。土星と冥王星の影響はこういったものを通して、個人に似たような古代からの影響をもたらしたと思いますか?

リズ・グリーン(以下リズ):私が思うに、人々の中には生まれてくる以前の長い過去が刻まれているか、または遥か昔の認識が宿っています。けれども歴史的な認識は、誰しもの世界観に備わっているものではありません。中にはそういうものをまったく持たずともうまく人生を送っている人たちもいます。土星と冥王星のサイクルは、死と再生、そして変容を繰り返しながら過去へと遡る、この長い長い歴史に対する意識を反映しているように見えますね。歴史的に見ても築き上げてきたものはいつの日か滅びます。このような歴史や事実について我々が持っている本能的な知識こそ、ここに潜在的に宿る強さのひとつでしょう。

ニック: 構築してきたものはいつの日か滅びる、という考えですが、占星術的な年代に沿って文化の衰退を見ていくとそのことが顕著に現れていますよね。あなたは「占星学(原題:Relating)」で水瓶座の時代について記しています。そこには『神々はもはや外部には存在せず我々の中に存在するものとなった、そして科学こそが水瓶座時代の証明である』、と書かれています。私には、ヒューマニスト(人文主義者)としてのあなたが我々こそが現在の物事の中心であるというように記したように見えます。また、すべての時代はその時代ごとの真実があり、他の時代よりも優れているという必要はないとするニューエイジ思想が育んだ文化相対主義の流れも組んでいますよね。

リズ:私はそういった意味において、占星術的な時代区分は他の時代区分よりも現実的なものだとは思っていません。けれども、どのようにして人間が最高善を定義するのかということ、もしくは何であれ人間が神と呼ぶもの、そういった認識を決めることにおいて(占星術的な時代は)ターニングポイントとなっているように見えますね。
真実はひとつではない、という意味からすると、私はどの時代が他のいかなる時代よりも「優れていた」とは考えません。古代の世界では神は「どこか」にいると考えられており、人間の生活の一部となっていました。今はその点において、神を定義するのに困難な時を迎えています。
真実のより大きな気づきを示す必要は必ずしもありません。それは、今この時において、現実と認識するものであるのでしょう。私たちが祈りを捧げる「そこにある」何かの神聖さに帰属するものから、崩壊したものがパラパラと小さな破片としてこぼれ落ちているのです。この崩壊は多くの問題、不安、脅威を生み出す原因になっているように見えます。それと正反対にある宇宙の反応が強固な原理主義ですね。人間は永遠であるというプロメテウス的なビジョン、つまりはすべては我々の内側に宿る、ということです。

そこに真か偽かを問うのは間違っています。なぜなら、それと私たちは共に生き、今後もそれは変わることはないのですから。 (問いにより)生まれる勘違いのせいで、今後間違いなく、私たちは長きに渡って大失敗を起こすことでしょう。神々に対する認識の変化に伴い、私たちは何かを失います。新しい認識を手に入れると、極めて大切なものを失ってしまいます。線引きをして「古いものは切り捨てます」なんてことを言うよりも、「新しいものを受け入れつつ、過去からの価値あるものをこれからもキープしていくことはできますか?」という質問の方がよく聞かれるように感じられますね。キリスト教は極めて非情なやり方で異教徒の世界観を切り捨てようとしました。しかし、それ以前の世界観に生きていた「価値あるもの」の除外には、ひどい代償が付きまとったと思います。私たちは今、同じ立ちところに立っているのです。

ニック:「Astrology for Lovers」には、『個人は絶えず何かに向かって成長をし続けている』と書かれています。あなたは人間社会は何かに向かって成長をしているのだと思いますか? おっしゃっていることから推測するに、何かに成長をしているということについて、あなたは極めて中立の立場でいらっしゃるのではないかと思います。それはつまり、成長を経て到達するものが、我々の出発点よりも優れている必要はない、ということですよね。

リズ:優れたものかもしれませんが、絶対にそうであると言い切ることはできないでしょう。もしも優れたものであるなら、進化という壮大な構想よりも、自分たちの可能性に関わってくるものでしょうね。しかし、それは多少人生に似たものでもあります。
ある程度の年齢になるまで、人生で経験することはサイクルのような形でやってきます。そのうち、これは以前に経験したものだな、と理解するようになるのです。人生の知恵として、または、物事を良い方向へ導くことやより創造的になって物事に対処する、ということにおいて、これまでよりも良いものを生み出すこととなるでしょう。それか、また同じことがやってきている、とわかった時に激昂し、嫌な気持ちにさせられ、破壊的になることもあるかもしれません。
そこには真の進化という可能性があると思いますが、それは与えられるものではないと思いますし、予定されているものだなんてこともさらさら思いもしません。もしも、それに対処するのに十分な知識や英知が備わっているのなら、自分たち自身で対処することに問題は生じないでしょうから。

ニック:あなたの「Neptune (The Astrological Neptune and the Quest for Redemption)」にあったニューエイジの教祖たちへの手厳しい言葉には、本当にまいりましたよ。他の世界に生きている人たちからしてみれば、アストロロジャーはニューエイジのメンバーでちょっと変わっている人たちと見なされているのに、ここには権力を持ちすぎてしまった教祖への批判を実際にしてしまうアストロロジャーがいるんですから。

リズ: ジョン・クーパー・ポウイスの言葉に『超従順性を求める神は悪魔である』というものがあります。これは私の好きな言葉なんです。どんな権力だって悪魔になり得るんです。それが「ニュー・エイジ・スピリチュアル」であれば教祖として。正統派の宗教なら教皇、科学的なものであれば力を持った学問や政治的形態。わたしたちが異であると声を上げることを放棄し始めてから、こうなってしまったんです。


「真実」とはひどい言葉です。その判断は、それを見ているひとによって変わってくるものですから。もし私たちが、真実だと理解するものを見つけるために個人的に体験する葛藤を放棄してしまうのなら、とんでもない愚か者でしょう。
私は教祖と呼ばれる対象を攻撃したわけではありません。かかりつけのお医者さんを教祖にするのもあなた自身、どこの政府だってそこにいる人たちがそれを教祖にしてしまうんです、ロシア人がソビエトの時代をそうしたようにね。何もわからない子供になって、親から手取り足取りすべて導いて欲しい、とあなたが願うのなら、何にでも教祖にすることができることでしょう。「ニューエイジ」だからという縛りがあるわけではありません。むしろ人間だから起こりうることであり、楽に生きたいという態度に関連しているのではないでしょうか。私たち人間は基本的に怠惰な性質を持つ生き物ですし、教祖的な存在に依存するというのは、我々の怠惰性の現れでしょう。

ニック:「The Outer Planets and their Cycles」のセミナーのひとつで、水瓶座の時代について触れられていました。参加者のひとりがあなたに水瓶座の時代はいつ始まるのか、と尋ねたとき、あなたは『わからないけど、水瓶座の時代はこの前の火曜に始まったんじゃない?』とおっしゃった、と。これは絶対確実なものを求める馬鹿らしさに対する回答ですよね。

リズ:ええ、もちろん。

ニック:ところが参加者からは『リズが言ったことにがっかりした』と言われたと。

リズ:そうです。それはそうでしょう。皆私には確たる答えを求めてくるんです。もう、大変なんですよ!

ニック:あなたも教祖になれそうですね。

リズ:それも多くの人のね。そんなふうに私を崇めるようなクライアントが来たときにはガッカリしてしまうんです。そういう気持ちを抱いてチャートを読んで欲しいという人が来るときは、はじめからわかるんです。私が何をしてあげようとも、それは彼らが欲しい答えじゃないからクライアントは結局失望してしまう。実際、こういうクライアントがやってきても避けるようにしていますよ。だって、私はそういうの嫌ですから。

ニック:事前に(そのことを)お伝えすることも?

リズ:そうね、だいたいそうしています。断固とした口調で、電話口で「なぜチャートを読んで欲しいのですか?」と聞くと、すぐさま私には(そういうクライアントかどうかが)わかるんです。
たまには構いませんが、多くの場合、教祖的な人を探している人は占星術を通じて受け取れるものを実際には求めていません。そういうひとは自分の安全を確保し、答えを授けてくれる親や神を探し求めているんです。これ以上恐れるものは何もないよ、と言ってくれる対象ですね。
こういう状況はよくわかります、でも私たちは皆、どうにかして乗り越えていくんです。その方法は星が決めるものではありません。占星術を通じてもたらされるメッセージは、真逆を行きますしね。だいたい「もたもたするな、自分の人生を生きろ、そのために手を抜くな」、こんなメッセージですよ。宇宙からの答えを提供するわけじゃないんです。私からすると、このような(クライアントが求める)ことを言うアストロロジャーは、あまり仕事を現実的なものとしては行っていないんだと思います。

ニック:長年占星術に関わり教鞭もふるっていらっしゃいますが、占星術とは何か、という答えにはたどり着きましたか?

リズ:いい質問ですね! 石碑に書かれるようなものか、と問われたら、ノーと言いますけど。
私にとって、占星術は象徴的な体系です。理解できない形で経験するものは頭で考えても何が起こっているのか状況把握することはできませんが、(占星術は)こういった生活や人生の中に深く刷り込まれたパターン、それを象徴的なイメージやパターンを使って理解するためのレンズや道具となります。
占星術はお題目や大まかなテーマの下に隠れたパターンから人生を解釈するのを目的にしています。他にもタロット、カバラ、数秘術、文学、詩、劇、絵画、彫刻といったレンズのような役割をするものたちがありますが、これらもパターンを捉えるのに同じくらいに有効な手段です。そしてこれらは占星術に深みを与え、占星術もこれらに深みを与えてくれるものだと私は考えています。
私は純粋な占星術というものは存在しないと思っています。(純粋な占星術が存在すると言うのは)純粋なイングランド人がいると言うようなものです。象徴の体系で言えば占星術はレンズでしょう。

ニック:占星術はレンズだという定義を用いるとすれば、アストロロジャーは何かを見る人になるのだと私には感じられます。
そうだとすると、見ているものとアストロロジャー、つまり見ている人、どちらに比重を置くかを選択できますね。アストロロジャーが見ているものを通して、どのようにして占星術に対する態度を決めているのか判断する様々な質問もできます。もしくは、彼らが何を見ているのか、レンズを通して何を見ているのかも話すことができますね。
レンズが見ているものを歪ませるのでしょうか? アストロロジャーは現実的なものを見ているのだと思いますか? 現実的に存在するものが占星術であり、我々がまさに見ているものであると思いますか?

リズ:あなたが言う『現実的』が何を意味しているかによって変わってきますね。黄道だって具体的に言えば存在していません。(黄道は)地球の周りを太陽が回る見かけ状の軌道であり、それを我々が12分割し、分割したひとつ一つにイメージ・意味・行動パターンを割り当てたのです。でも、そこに動物たちが実際に浮かんでいるのかという点においては、黄道は存在しません。
あるレベルからすると、すべての体系は現実的ではありません。今、私たちが席についているテーブルは、現実的に存在するものと定義されたものですが、現実をより曖昧なものとして捉え、コネクション、リンク、共鳴、一致といったモノとモノを繋ぐものが現実だとすると、こういったパターンは現実的に存在するものです。けれども、現実に存在するとされる測定器を使って、定量化する方法でそれらを測ることはできません。
あなたの言う『現実的』が何を意味するのか、私にはわからないということが問題なんです。それか、私はもうあなたの意図するものを知っているのかも。けれども、もしもリチャード・ドーキンスが『これは現実なのか?』と訪ねてきたとしたら、私の知っている「現実」とはまったく違う意味で捉えたことでしょう。

ニック:リチャード・ドーキンス的な感覚を持って『現実的』という言葉を使っていました。

リズ:そういうことなら違いますね、占星術は現実ではありません。だからと言って存在していないとか有効ではないとかではなく、リチャード・ドーキンスの言う意味でなら占星術は現実ではないということです。私は、占星術には客観的なパターン、相互関連性、ある種の統合または一連の共鳴があると信じています。あなたのお好きな言語、神秘的でもヘルメス主義なものであっても、お好きなように言い表すことができるものです。それは我々の外部に存在するものであり、アストロロジャーが見て存在するものだと知覚できるものではない、というだけです。

ニック:あなたの著書である「占星学」は、すべての統合を説いたゲアハルト・ドーンの力強い一節から始まっていますね。


『以前は一体であった天体と(四大)元素が、神の手により別々のものとなり、汝や他の諸々の物を生み出したということを知っているだろうか。もしこのことを気づいているならば、他のものが汝を逃れることはできない。ゆえにあらゆる時代においてこのような分離が必要であった。……汝自身がまず自らを一つのものとしない限り、汝の求める一なるものをその他のものから作り出すことは決してできないだろう……。』(青土社「占星学」より抜粋)


これはとてもパワフルな言葉です。占星術の考えが天と地球の統合という理解のもとから自然に生み出されるのだということと、占星術的体験が我々とともに始まるのだという考えを示すものとなっています。
あなたは同じ本にて現代の量子科学にも言及をしています。この本をお書きになったのは25年前ですが、今振り返ってみて、この本に書かれた言葉とまだ同じような見解をお持ちになっているのでしょうか? あなたは『占星学とは……生命が機能するエネルギーにおいての統制立てられたシステムマップであり──占星学は統計研究と学術調査により立証される』と言っていますが、現在でもこのようにお考えなのでしょうか? 
私がこの発言に興味を引かれる理由は、占星術を検証するひとつの方法としての学術調査や統計学に対して、アストロロジャーが持つ見解の変化を言い表したものだからです。それだけでなく、好ましくない結果はアストロロジャーのアンチ科学的な姿勢を増長させるというように聞こえます。1977年時点での見解と、現在のあなたの見解に変化はあるのでしょうか?

リズ:パターンを強調するという意味においては、調査は占星術において非常に価値あるものだと思います。時々、研究結果で私たちが予想もしていなかったパターンが浮き彫りになることもあります。私たちの推測というものが試されているんでしょう。
だから答えは「イエス」です。学術的に調査することは非常に価値のあることです。しかし、占星術を通して行うことの内容を証明しようとする観点からすると、それは有効的な方法ではないと思います。なぜなら、断固として占星術に対し賛成の意を唱えないという姿勢を持っているのであれば、どうにかしてでも統計上で起きている穴を見つけようとするでしょう。
大抵の場合は統計でまとめた結果を持ち出して、叩きのめしてしまいます。占星術家は自身の目的のために統計学的リサーチは続けてもいいでしょうが、占星術に対して疑いの目でしか見ていない人たちを説き伏せようとすることに意味はありません。
もし一年かけてネイタルチャートに太陽と土星のオポジションを持っている人300人のチャートを読めば、そのうちの80%が若いうちに父親と離れたか、亡くなってしまったか、産まれる前にどこかに行ってしまったか、あまり親密とは言えない関係であると統計上では出てくるでしょう。そうしたら私はこう言います。「そうね、私の読んだ太陽と土星のオポジションを持っているチャート300人のうち80%はそういった心理的なパターンを持っているわね」。私にとっては、太陽と土星のオポジションがどういった意味を成すのか、さらに深く考察していくことに活用できるものになっていくかもしれません。
けれども、統計調査をより「科学的」な形で明確化してくいくひとにリサーチを依頼すれば、彼らはこう言うでしょう。「300人じゃ意味を成さない。3000人のニュートラルコントロールされた母集団であることが必要だ」、と。あなたが何をしようと、彼らは他のテストをしようとしてくるでしょう。
私たちが行う研究は私たち自身にとってはとても大切なものです。そして正直に言ってしまえば、外部の者を納得させるなんてことは私にとってはどうでもいいことです。自分自身のスキルアップのためにこういうことをしていく必要があるということです。

ニック:研究という名の元において言わせてもらえれば、あなたが今おっしゃったことはケーススタディを元にした質的アプローチのようにお見受けします。

リズ:ええ、その通りです。その質の大小はありますがね。

ニック:占星術では、特定のテクニックやハウスシステムについて「使えない」か「使える」のかという問題にしばしば辿り着きます。ハウスシステムは中でも大きな問題になりますね。恒星年を基準とするか太陽年を基準とするかという問題とはかなり別種の問題ですが。
恒星年か太陽年かという問題はさておき、使用するハウスシステムはどのようにして決めたら良いのでしょう? あなたは以前『自分にとってこれだと思うハウスシステムを使うべき』とおっしゃっていました。これを聞き、あなたは占星術を中心として考えるのではなく、占星術家を主体として考えているのだと私は思っているのですが。
 

リズ:あるでは意味はそうでしょう。私はこれらの構造的なアプローチへの扉が閉まっているとは思いませんが、ほんの少ししか開かれておらず、どれもすべて完全にオープンになっているとは思っていません。多分、そこが特定の占星術家にしか「これだ」と思われない所以なのでしょう。

ニック:では、クライアントが占星術家を選ぶのではなく、占星術家がクライアントを選ぶという考えに賛同していますか?

リズ:はい。

ニック:しかし、この考えはかなり物議を醸し出すものでもありますよね。例えば、どこか遠くにクライアントがいるとしましょう。その人が突然ある時に移動をし、あなたに電話をしてきて『チャートを読んでくれますか?』と尋ねてくる。言うなれば、あなたはこのクライアントを召喚したということでしょうか?

リズ:召喚しているかはわかりませんが、共鳴という考えに戻るのだと思います。
土星と冥王星のオポジションがあなたの太陽とスクエアを組もうとしているとしましょう。これは、ある時にあなたという人間が変化するものの姿を象徴的に表しているようなものを表しています。あなたの経験、人生の荒波、あなたの現在の心などの状態、このような特定のエネルギー、これらはいずれもあなたの内側と外側の世界どちらでも起こっていることです。あなたは多分、このオポジションと関連するようなことを人生の上で経験するのでしょう。
この体験をどのように取り扱うかは個人によって異なります。『よしきた! これはものすごく大変だし、手強いアスペクトだ。このアスペクがある間に、博士号を取るぞ』と、アスペクトを利用する人もいるかもしれません。またはアスペクトの犠牲者となり、『ああ、誰かが私の家に不法侵入した』とか『通りで暴動が起き、私の車に火をつけた』なんてことを言う人もいるでしょう。
体験することの基本的な概念は、あなたがその時にどうやって対処できるのか、と結びついています。けれども同じように、アストロロジャーとして、あなたが体験していることに共鳴しているようなクライアントに出会うということもあるでしょう。蠍座にたくさんの惑星を持つ人、山羊座にたくさんの惑星を持つ人、それらのオポジションとなる人に会うかもしれません。
あなたのところへやってくる人はあなたが共鳴することに同じく何らかの形で共鳴する、あなたの鏡なのです。私はアストロロジャーがクライアントを呼ぶ、とは思いません。むしろ、あなたがある地点に到達したとき、あなたの元へやってくることが共鳴するのでしょう。偶然ではないんです。

ニック:リチャード・ドーキンスのような物質主義科学者に『共鳴している』という言葉を使うなら、彼らは何が共鳴なのかという物質的な説明をするでしょう。あなたは『共鳴している』という言葉を詩的な表現として使っていますか?

リズ:ええ、文字通りの意味としてもね。音叉を叩き、完璧にチューニングされたギターがその横にあれば、そこには音として聞こえる共鳴が確認できますよね。けれども、ギターのチューニングがおかしくなっていたら、そこには何も生まれません。そういった共鳴が物質的なレベルで起こるんです。

ニック:それは、私たちはこの球体(地球)の音楽に応えているということでしょうか?

リズ:私は、私たちはその音楽の一部だとも思っています。一定のコードと共鳴が続いているんです。

ニック:土星と冥王星のオポジションの例に戻りましょう。もしもこのトランジットが起こっている人が、何かの犠牲となるか、または大学の学位を取るという明確なものを目指すかどちらかを選択できるとすると、その選択はどのようにして得られるのでしょうか? チャート上での他のパターンから得られるもの、ということでしょうか?

リズ:そうではないですね。そこで起きている共鳴とは、心理学的には意識と呼ばれるものです。それが何かと言われても、水星に関わっているもの、ということ以外ははっきりとは説明できませんけれど。錬金術の世界では意識は水星の領域のものですよね。
意識は占星術的パターンによって制限をかけられたり、限界が定まっているわけではありません。もちろん意識はそのパターンにより『こういうもの』と決まり表現されますが、外部に対しても、自分の中でも、その周辺に対しても働きかけるものであり、私たちは選択ができるようになります。そういったパターンに対してどのように応えるかを変えていくのが意識なのでしょう。
動物の住まう世界どこでも起きていることですが、単に私たちがパターン化し考える余地なく『これはこういうもの』と決めかかってしまうか、もしくは意識の世界にそれを持ち込み、方向転換するのか。パターンは変わることはありませんが、コードは広がりもっと様々な音階となっていくことができるのです。

ニック:つまり、意識とは占星術に何かをもたらすもの、占星術を超えた何かである、ということでしょうか?

リズ:ええ、そう思います。

ニック:新プラトン主義が「魂」と呼んでいるものみたいな感じでしょうか。新プラトン主義では、魂は身体を超える、星すらも超えてしまうと言っていますね。しかし、もし意識が占星術を超えてしまうなら、ホロスコープでアンコンシャスプラネット(無意識的惑星)に対して存在するコンシャスプラネット(意識的惑星)と呼ばれる水星や金星、火星はどうなりますか?

リズ:どの惑星も意識的だなんて確証はありません。それらの惑星はパターンを示しているだけです。もし個人がそのパターンに気づいているなら、その惑星は意識的に表現されるのでしょうけれども、単にインナープラネット(地球内惑星)なだけなのですから、パターンを意識づけさせる必要性は負っていませんよね。これは私自身の経験から学んだことです。
人は、月が自分の中で何を意味しているのか、金星が自分の中で何を意味しているのか、意識することもなくさ迷い続けているのかもしれません。元となるパターンがどんなものであれ、惑星は人々の性質を表しますが、それに完全に気づくなんてことはありません。私たちはパターンを投影し、翻弄され、打ちのめされ、パターンに成りきり、認識し、疲弊させられてしまいますが、私たちがそうなっている、ということに気づくことはまったくもってないでしょう。
それは「外部」で起きていることのようか、はたまた私たちに降りかかってきているもののように見えるでしょうが、パターンとはすなわち私たちの中にあるもの、つまり私たちです。実際には内側で起こっていることですが、事実として意識と何らかの形で結びつくといった保証はありません。

ニック:では、いつ意識しているのだと悟ることができるのでしょう?

リズ:それは難しい質問ですね。すべてが停止している中心に立ち、頭で考えるようなレベルではなく、全体を通して気づくような感覚に近いでしょうか。気付くものとは、あなたがあなた自身として認識していること以外にも、自分では認識していないものも含まれるでしょう。つまりあなたとの間に隔たりがあるものなんでしょうね。
例えば、今日火星のトランジットの影響が私にあるとしましょう。あなたが失言すると怒りを見せるようなトランジットです。もし私がその怒りを意識できていないなら、私は素直に怒りを露わにするでしょう。むしろ、怒っていることもわからないでいることもあります。罵詈雑言をまくし立てるか、あなたを叩くか、もしかしたらコップの水をかけてしまうかもしれません。意識が司どるところに誰もいないような状態に陥り、何をしでかすのかもわからなければ、何を言うのかも、何を感じているのかもわからないような状態です。ただ怒りを表現する行動に出てはこう言うのでしょう。『あらごめんなさい、私カッとなっていたわ。こんなことするつもりではなかったの』と。
けれども、もし怒りに気付くことができれば、あなたの言葉を聞いて怒ったことが自分でもわかり、もしかしたらその原因だってわかってしまうかもしれません。怒りを感じることがあっても、表現することはないでしょう。つまり、自分にこんな問いかけをするのです。『彼はどういう意味で言ったのかしら? 彼の言葉のどこで私がカチンと来たの?』、そして、このインタビューを終えた後でも怒りが収まっていなかったら、私はあなたに『自分が何を言ったか覚えていますか? とても感じが良くなかったですよ』と冷静に言うでしょう。もしくは、何も言いません。私が怒ったところで、あなたをどうにもできはしませんから。怒っているのは自分自身の問題ですからね。

ニック:私たちの内側で起きていることは、要となるもののように聞こえてきますね。もし占星術を言語だと見なすとしたら、思考の意識できる部分は双子座的、または乙女座的だと言うことができるでしょうか? 自己分析をしているということですよね?

リズ:そこでは分析のようなことは起きていないと私は思います。概念的に考える人もいるでしょうが、意識とは水のようなものであったり、火のようなものであったり、地のようなものでもありますから。どのようにして気づくかということです。つまり、経験していることを認識できていないということですね。部外者として外部にいようとも、他の人からすれば十分認識が可能です。知的な方法でなくても、あらゆるレベルで認識することができるでしょう。

ニック:トランジットが何かの知らせであることを思い出させてくれる占星術的な金言があります。チャールズ・カーターの『星は私たちに強制はしない、ただそうさせるのだ』という有名な言葉に、ジェフリー・コーネリアスがこう付け加えました。『星は強制や傾倒させはしないが、意味を表している』。この言葉を借りるとすると、トランジットは原因というよりも道標のようなものとして見るのが最適なんでしょうか?

リズ:私も惑星は意味を示すものだと思っています。押し付けや強制、はたまた一掃、あるいは「何か」をしてくれるものだとは思っていません。彼らは単に意味するものなんです。

ニック:あなたの作品の中でよく扱われるテーマの一つに、占星術は過程または道であり、私たちは皆どこかへ向かう旅の途中である、というものがあります。
私自身、土星と冥王星の関係について書かれたあなたの作品を読み、あなたは人生という道のりでやってくる成長と衰退を通しての過程と経過というコンセプトについても強調していることに気が付きました。これは自然世界や社会生活、人間の心の中にも確実にあるものです。あなたは『これらは深淵なコンセプトです』とも書いていました。
ある時には土星と冥王星の関係で生まれ変わりが議論になったそうですが、そのセミナーの参加者の一人があなたの意見も聞きたがったそうですね。あなたはそこで『私はこの話の霊的な部分についてはまったくわからないわ』とおっしゃったということでした。
そこで私が聞きたいのは、あなたの占星術の世界観に影響を与えているような形而上学的なものはあるのか、または占星術の大きな形而上学的説明ができるのか、ということです。もしくはあなたは気にかけたこともないことなのでしょうか?

リズ:個人的なレベルでは、いったいこんなひどい世界で私は何をしているのかしら、といつも頭をよぎりますよ。その疑問が解決することはないのでしょうけれど、私は占星術は形而上学的なものを包括しているとは思っていません。占星術には信条が関与する部分なんかはありません。信念のようなものを持ち込むのは人間です。誰しも先入観は持っていますから、ある意味避けられないことなんでしょうね。
つまり、私が発した言葉ひとつひとつには、私の信条や信念が反映されているということです。だから『私は占星術の世界に私の信念を持ち込みません』なんて言うことは不可能です。私が人生で自覚しているパターンが占星術の世界にあるもの、なんて保証はできません。けれど、何千年にも渡ってたくさんの人たちもそういったことを自覚してきているのだから、そういうものがあることは確かなのだと思います。
しかし、生まれ変わりや進化、死後魂はどこに行くのかといった質問はわかりませんね。魂はあるのか? 死後は天国か地獄に行くのか? 私たちはキリスト教徒なのか、それとも異教徒なのか? 私にはまったくわかりません。このような質問に対する答えも、占星術そのものに関係することだとは思いません。
占星術とは、単にパターンを表す象徴のようなものです。そこにスピリチュアル、宗教観念、または形而上学的なものを当てがうのは構いませんが、それは個人的に当てがってみていることであり、占星術の中で脈々と受け継がれてきたものではありません。

ニック:つまり、占星術は信念や思考体系だと?

リズ:そうとは言っていません。象徴の域を超えたものはそうなのだと言っているのです。象徴とは何なのか私にわかることは、相反する複雑なパターンが何らかの形で結びついた多数の受け皿のようなものとして組織立てられて形を成している、いうことです。私たちが自ら作るものでもなければ、100% 信じているわけでもありません。ともかく存在しているものということを私たちは知覚し、気づき、それらを結びつけることをしているんです。
占星術の世界で「信じる」なんてことは、私にとっては何の意味もありません。『占星術を信じています』なんて言うのはナンセンスです。「信じる」なんてことは、直接的な経験がない時にするものですから。占星術とは、どういった意味や関連性をもたらすのかどうかを考える、経験と実地が求められるものです。だからそんなことを言うのは、『あなたは自分の車を信じていますか?』と言うのと同じことです。車は運転するものですよね。そのメカニズムは知りませんが、動けばいいんです。
『占星術を信じている』と言う人は、言葉のチョイスを間違っているか、何を話しているのかわかっていないんでしょう。神様や生まれ変わりを信じることは、直接的な経験がないからできることです。信条に関係なく、神は存在することを知っていると言う人もいます。そういったことと議論する気もありません、だってそうかもしれませんしね。生まれ変わりはあるのだと言う人もいます。16世紀に十字架に吊り下げられて火で焼かれた記憶があるから、そう言えるのだと。
そういうことを言う人を馬鹿げているとか妄信的だとジャッジしたり、抽象的に何か深い関連があるのだと夢みたいなことを言っていると言えるような立場に私はいません。私はわからないだけです。知る由もないのですから。私は、そういった話をクライアントとのセッションに持ち込むのは適切ではないと感じる、ということです。

ニック:あなたは、信条と疑念はコインの裏表であると言っています。これを聞き、1985年の英国占星術協会年次大会でアレクサンダー・ルパーティと交わした会話を思い出しました。
彼はアリス・ベイリーの生徒であり、とても哲学的で神智学に影響を多く受けていました。彼はユング派心理占星術を学ぶ者に対してとても批判的になり、こう言ったのです。『すべてを心理学的に分析してしまうから、何をやってるかも自分自身でわからないんだろう』と。
私はその時、20世紀の初めに近代心理占星術を発展させた神智学的占星術を学ぶ者たちが、彼らの占星術の中には絶対的なスピリチュアル的神学が存在しており、ルパーティもそれに漏れることなく追随しているんだろうと思ったのです。しかし、占星術に対しての心理学的アプローチは、(神智学的占星術者のように)もし大天使やアセンデッドマスターの存在を信じているなら、その信念は単なる心理的投影でしかないと言われてしまうため、非常に疑わしいものになるのも事実でしょう。

リズ:そうね、そうかもしれません。でも、物事を心理学的に見るからと言って、非日常的経験が問題を昇華するのにとって必須だということにはなりません。非日常的信念は完全に彼らの中で成立しているものです。心理学的見解を占星術に与えると、霊的体験が何であれ、占星術を伝えるのは人間であるということが前提となります。伝えられるものが何であれ、心理学はそれが真実か否かを判断するような立場にはないのです。人間が自覚しているものに対して、その人の心理学的なプロセスをそこに持ち込むのです。
だから、もし敬虔なカソリック教徒が霊的な経験をすると、こんなふうに言うでしょう。『私はマリア様に会った』と。オーストラリアのアボリジニーなら『大地とひとつになった』と言い、ヒンズー教徒ならクリシュナを通して悟りを得るのでしょう。個人個人がそれぞれのレンズを作り、体験する経験が知覚されていきます。そこで心理学が言えることは、『わかりました、何か通常では考えられないことが起きたのですね、けれどもそれが天使なのか何なのかは、私たちはわかりません』です。
個人的なことを言えば、天使が存在するかしないかを言えるような立場に私はいません。まったく見当もつきませんけれども、私のところに来て天使に会ったと言ってくる人には興味があります。なぜなら、その言葉にはその人がどんな人間で心理状態がどんなものかが詰まっていますよね。天使がその人に伝えたすべてを真と思う前に、自分自身がどのような人物なのかも知っておくのも悪いことではありません。そうすることで、少なくとも息抜きと道探りの余裕が生まれてきますから。

ニック:あなたの「Neptune(The Astrological Neptune and the Quest for Redemption )」では、『もちろん心理学そのものは、反セラピー団体が主張するように、一層つかみどころがない宗教的宇宙論の一つに過ぎないかもしれない。精神分析という科学的体系とアリス・ベイリーが導いた秘教的な教えとの間には、人が考えるほどの大きな隔たりはない』と書いてあります。懐疑的になると言うことはさておき、心理学は宗教的宇宙論であるという考えが私は好きです。

リズ:心理学のいろいろな流派はそのような感じだと私は思います。その人の見解に偏った独善的なものになる傾向があるでしょう。心理学の各流派は、その言語、上下関係、心の地図、私たちの中心にあるもの、そして私たちが向かう先をはっきりと「これだ」と現そうとしますが、これは宗教やスピリチュアル団体がやっていることと完全に同じです。言葉が違うだけなのです。
もしもあなたがフロイト派であれば、オイディプスコンプレックスはすんなりと受け入れられることでしょう。現実をしっかりと見、そこで気が付かない限り、そういった体系が出来上がってしまい他人の行動を判断する手段となります。
しかし、占星術の中には、天体以上に「リアル」なものは存在しません。もしもあなたがユング派であれば(そしてユング派はこうすると聞いたことがありますが)、ユング派のモデルはあたかも実際に存在しているもののように話をするかもしれません。私が学んでいる時は常にこのような感じでした。
そこで誰かが『あ、私アニマ的な経験があるわ』と言うこともあるでしょう。そりゃ恋に落ちていろいろあったんですもの、そんなことを経験すれば、アニマが現実に存在し、物事を図る確実なものとして定義されるのでしょうが、実際はそうではありません。それは宗教的体系へと変化を遂げた心理学的な専門用語です。宗教的な用語が宗教を体系化させるのと同じですね。
人は言語を、あたかもそれが現実そのものの具体的な構造であるかのようにして間違って使っています。しかし、それは言語に過ぎません。どんな言語を使うのであれ、その言語が示すものは変わらないのです。違う言葉を使ったからと言って、多かれ少なかれリアルにする、ということはできないのです。

ニック:ユングは、アニマは実在し確たるものであったと考えていたと思いますか?

リズ:私にはわかりません。そうは考えてはいなかったのではないかと思っています。わからない部分もありますけど、多くの心理学者が心理学の体系を表すのと同じ理由で、それを体系のひとつとして使っていたんだと思いますね。誤解しないで欲しいのですが、私は、「言語は悪いものであり、心理学または占星術の用語を使うな」と言っているわけではないのです。そんなふうに思ったことはありません。文字通りに受け取ってしまうと凝り固まったものになってしまうので。

ニック:この15年間、占星術の世界では、より文字通り言われる通りの占星術に戻ろうという動きがかなりありました。占星術の世界では「伝統回帰」と呼ばれ、自分の感覚で知識を広げようとする傍ら、「伝統回帰」は確実なものを求める占星術者にとっては安全な待避所にもなっています。

リズ:宗教の世界でも同じことが起きていましたよね。混乱が一度起きてしまったり、何かが崩壊して私たちが対処できないスピードで変化が起きてしまえば、何らかのパニック状態が全体で起こります。これは非常に怖いことです。私たちを支えている構造体にも変化の波は押し寄せてくるでしょう。占星術のみならず、他のいかなる部分にも影響が加わることでしょう。それは必ずしも悪いものではありません。恐怖は恐怖でしかなく、そのような時には安全が極めて魅力的なものに見えるからです。しかし、いわゆる文字通りのアプローチが求められる時であっても、遊び心を忘れないこと、なぜそれが必要なのかがわかる頭を持っておくことはいつだって大切なことでしょう。

ニック:皮肉っぽいセンスを持っておくのもいいかもしれませんね。「The Outer Planets and Their Cycles」の中で、あなたは『エナンチオドロミア』という言葉をイスラエルの歴史に紐付けて使用していました。そうなるとは想定されていなかったことが起きてしまう、という宇宙的な表現を含んだアイロニーを意図されていたんでしょうか? これはシャドウの概念と関連がありますか?

リズ:エナンチオドロミアが起きるのは、方向性が非常に行き過ぎてしまった時です。そうすると正反対へと急に方向転換する傾向が高まり、まるでどこかに行ってしまうようなことが起きてしまいます。それはシャドウのためだけに起きているのではないでしょう。
何がそこで起こっているかと言うと、恐怖を感じるあまりとか、または単純に特定のことに対処する準備が整ってないからという理由のせいで、あることから遠ざけようとしているのです。すると片一方へと偏向することが起こります。もっともっと偏りが生じると、あなたの中で過激さが増していき、正反対のことを受け入れることができなくなってしまいます。
どうしてそうなるのかはとても不思議ですが、そうしているうちに遠ざけてきたものへとあなたが成り代わり、それらがしていたような態度を取り始めます。あなたが実際にやっていることは、実際にはその遠ざけていたものと変わりはないのに、批判しながらもそのような態度を取るようになるのです。つまり、彼らとあなたはまったくの同じものになってしまうのです。
問題と理想とは対極にあるものですが、その相対する二つの陣営、二人の人間、二つのグループ、二つの集団などは実はとても似通ったものを持っています。しかし、どちらも妥協して中間地点に留まり、共通しているものを見つけて生きていく、なんてことができるわけがありません。

ニック:占星術師が見ていない世界が、芸術の世界には生きていますね。特に、占星術師の考えと同じものに影響を受けている人たちから作られる視覚芸術の分野ではそうだと思います。

リズ:モローとルドンは私の大好きな画家ですが、彼らは占星術、神話、ヘルメス主義に親しんでいました。彼らの絵画から感じられるイメージは素晴らしいものがあります。あなたがおっしゃったように、占星術師は芸術の世界とはあまり関わりあうことはありません。例え同じことを表現していても、です。

ニック:占星術では象徴を言葉に変えて伝える必要性がありますが、視覚芸術に携わるアーティストはそうする必要はありません。イメージの世界で生きている人たちですからね。

リズ:クライアントの多くはそのどちらにも属していませんので、多くは惑星が何をしているのかを言語化して考えることができないのですね。もしも絵を見せたり、小説や詩といったものからストーリーやその一片を教えてあげたりすれば、ピンとくることもあるでしょうが、御託を並べ立ててしまってはうまくいくこともいかなくなってしまいます。なので、自分自身の理解を深めていくだけではなく、人々と関わっていくことも大切なのです。

このインタビューはアメリカの占星術雑誌である『マウンテン・アストロロジャー(2002年12月/1月号)』に掲載されました。www.mountainastrologer.com にてお求めいただけます。

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